さざなみ5 トリイさん
5 トリイさん
小岩駅南口は、放射状に道路が広がっている。そのうちの東に伸びている通りが地蔵通りだ。地蔵通りを5、6分歩いたところの地下にトリイさんの店「ドルフィー」があった。
地蔵通りというからには、どこかにお地蔵さんがいるのだろうと探したこともあったが、どこにも見当たらなかった。どうも地蔵通りが「発展」し、お地蔵さんも周囲が騒がしくなって気の毒だということで、1963年に、東養寺というお寺にお移し奉ったということだ。
「ドルフィー」はジャズ喫茶で、トリイさんが心酔していた「エリック・ドルフィー」から名付けた、ということだった。僕は「マイルス・デイビス」「ジョン・コルトレーン」くらいはかろうじて知っていたが、「エリック・ドルフィー」という名前は聞いたことがなかった。
店は黒一色で、入口を入った正面に、ポスターが2枚貼ってあった。1枚は「エリック・ドルフィー」。もう1枚は「エルネスト・チェ・ゲバラ」。ゲバラのポスターはコルダが撮った有名な写真で、下に「Hasta La Victoria Siempre」(勝利の日まで 永遠に)と書いてあった。トリイさんはチェにも心酔していた。
トリイさんは、僕らの高校の3コか4コ上の先輩で、どこでどうつながっているのかわからないが、トリイさんの店にみんなが集まった。タイチはラグビー部でトリイさんはラグビー部のOBだったから、タイチとトリイさんはラグビー部つながりだった。トリイさんの店に通い始めた頃、僕らはまだ高校生で、酒を飲まないわけではなかったが、トリイさんに迷惑がかかるといけないので、トリイさんの店では飲まなかった。タイチは例外だった。タイチは先輩のトリイさんに甘え、トリイさんもタイチを甘やかしていた。僕らは客というよりは半分従業員で、コーヒーを飲ませてもらう代わりに、オーダーを取ったり、レジを打ったり、時には洗い物をしたりしていた。ヒロユキはもちろんコーラだ。
トリイさんはジャズ喫茶を開くために、節約に節約を重ね、一日三食カップ麺で過ごしたそうだ。そのせいか十二指腸潰瘍で吐血、入院し、せっかく貯めた開業資金を失った。恋人のみのりさんが熱心に看病して、その後結婚し、みのりさんの助けもあって開業したということだった。みのりさんは、長い黒髪を後ろで束ねてキビキビ働いていて、梶芽衣子に似た美人だった。一方、トリイさんは、モジャモジャ頭の巨漢だったから、陰では美女と野獣と言う者もいたが、面と向かって言える者はいなかった。
高校を卒業し、大学に行ってからは、なかなか行けなくなったが、タツヤやヒロユキは地元で働いていたので、ちょくちょく行っていた。
しばらく行けないでいたところ、タツヤから、トリイさんが亡くなったという知らせを受けた。まだ30代だった。ドルフィーは36歳で亡くなり、チェは39歳で亡くなっている。
タツヤはみのりさんに好意を寄せていて、どうやって調べたかわからないが、2、3年後、みのりさんのところを訪ねたそうだ。みのりさんは小さい子と庭で遊んでいて、タツヤが話しかけると、一瞬、懐かしそうな顔を見せたけれど、「幸せに暮らしているので、もう来ないでください」と言われたそうだ。
トリイさんが生きてさえいてくれれば、トリイさんにもみのりさんにも会えただろうに。セ・ラ・ヴィ それが人生だ。