さざなみ6 K先生

6 K先生

 K先生は国語の先生だった。国語の先生というよりは、指導部の先生だった。

 ガタイがよいわけではなかったが、黒っぽいスーツにサングラスをかけていて、オールバックで、凄みがあった。

 授業での口グセは、傲岸不遜、粗暴野卑。言葉遣いが少しでもおかしかったり、授業態度が悪かったりすると、この言葉が飛んでくる。粗暴野卑と言われた時には、「粗にして野だが卑ではない」という言葉を返したかったが、その十倍くらいの言葉が返ってきそうなので、やめておいた。

 3年生になると、授業で大学入試の問題を解いたりするのだが、生徒が苦しまぎれにあちこちから答えを引っ張り出して答えると、「それは大学入試問題正解の答えだな」とか「赤本の答えが正解だと思っていたら、大きな間違いだ」などというコメントが返ってきて、カリスマとまでは言わないが、生徒には一目置かれていた。

 

 3年生の時の文化祭で、一コ下の彼女と校舎内を回っていたのをK先生に見られた。何もやましいことをしているわけではないが、イヤな予感がした。次の週の国語の授業で、唐突に文化祭の話になり、「そう言えば、シュウ、彼女と歩いていたのを見たぞ。シュウにも遅い春が来たか」とK先生は言った。余計なお世話だ。しかも、授業のネタにするか? と思ったが、もちろん言葉に出しては言えなかった。

 トリイさんの店でその話題になった時に、タツヤは、K先生に、錦糸町のモク拾いみたいだな、と言われたことがある、と言った。オレは落ちているタバコを拾って吸うようなことはしてないぞ、だいたい、いつの時代の言葉だよ、とタツヤは憤っていた。タツヤは何を思ったか、雑誌を持ってきて、後ろに付いている資料請求のハガキを剥がし出した。電話帳でK先生の住所を探し出し、せっせと書き始めた。正面から闘わずに、匿名で嫌がらせをするのはよくないと思ったが、あえて止めることはせず、自分も1、2枚は書いたかもしれない。

 次の週の授業で、K先生は、請求した覚えがないのにあちこちから資料が届いたが、読んでみると勉強になった、と面白おかしく話した。しばらくすると、家電が届き、百科事典が届き、果ては自×隊の勧誘の人が来た、という話をしていた。家電や百科事典は事情を話して引き取ってもらい、自×隊の人には、自分と小学生の息子しかいないことを説明して帰ってもらったそうだ。さすがにやりすぎだろう。僕たちのやったことではないが、きっかけを作ったことには変わりないと思い、反省した。

 言われた時には、頭に血が昇ったが、今から考えるとK先生独特の愛情表現だったのかもしれない。こいつだったら、これくらい言っても構わないだろう、と先生は思ったのかもしれない。迷惑な話だが、考えようによっては光栄なことだ。

 

ある時、学年の同窓会に杖をつきながら参加してくれた。黒の中折れ帽に、黒のコートにサングラス。教員時代のままだったが、足元がおぼつかなかった。タツヤが走り寄って、K先生を支え、席に案内した。そして、隣の席に座り、かいがいしく面倒を見ていた。罪滅ぼしのつもりだったのか。ハガキのことを謝るかと思っていたが、おくびにも出さなかった。

 

それから程なくして、K先生は亡くなった。彼女のことでからかわれたことは、今となってはいい思い出だ。授業中に彼女のことでからかわれた高校生など、日本全国、そうはいないだろう。もちろん、そういう先生もそうはいないはずだ。

さざなみ5 トリイさん

5 トリイさん

 

 小岩駅南口は、放射状に道路が広がっている。そのうちの東に伸びている通りが地蔵通りだ。地蔵通りを5、6分歩いたところの地下にトリイさんの店「ドルフィー」があった。

 地蔵通りというからには、どこかにお地蔵さんがいるのだろうと探したこともあったが、どこにも見当たらなかった。どうも地蔵通りが「発展」し、お地蔵さんも周囲が騒がしくなって気の毒だということで、1963年に、東養寺というお寺にお移し奉ったということだ。

 「ドルフィー」はジャズ喫茶で、トリイさんが心酔していた「エリック・ドルフィー」から名付けた、ということだった。僕は「マイルス・デイビス」「ジョン・コルトレーン」くらいはかろうじて知っていたが、「エリック・ドルフィー」という名前は聞いたことがなかった。

 店は黒一色で、入口を入った正面に、ポスターが2枚貼ってあった。1枚は「エリック・ドルフィー」。もう1枚は「エルネスト・チェ・ゲバラ」。ゲバラのポスターはコルダが撮った有名な写真で、下に「Hasta La Victoria Siempre」(勝利の日まで 永遠に)と書いてあった。トリイさんはチェにも心酔していた。

 

 トリイさんは、僕らの高校の3コか4コ上の先輩で、どこでどうつながっているのかわからないが、トリイさんの店にみんなが集まった。タイチはラグビー部でトリイさんはラグビー部のOBだったから、タイチとトリイさんはラグビー部つながりだった。トリイさんの店に通い始めた頃、僕らはまだ高校生で、酒を飲まないわけではなかったが、トリイさんに迷惑がかかるといけないので、トリイさんの店では飲まなかった。タイチは例外だった。タイチは先輩のトリイさんに甘え、トリイさんもタイチを甘やかしていた。僕らは客というよりは半分従業員で、コーヒーを飲ませてもらう代わりに、オーダーを取ったり、レジを打ったり、時には洗い物をしたりしていた。ヒロユキはもちろんコーラだ。

 トリイさんはジャズ喫茶を開くために、節約に節約を重ね、一日三食カップ麺で過ごしたそうだ。そのせいか十二指腸潰瘍で吐血、入院し、せっかく貯めた開業資金を失った。恋人のみのりさんが熱心に看病して、その後結婚し、みのりさんの助けもあって開業したということだった。みのりさんは、長い黒髪を後ろで束ねてキビキビ働いていて、梶芽衣子に似た美人だった。一方、トリイさんは、モジャモジャ頭の巨漢だったから、陰では美女と野獣と言う者もいたが、面と向かって言える者はいなかった。

 高校を卒業し、大学に行ってからは、なかなか行けなくなったが、タツヤやヒロユキは地元で働いていたので、ちょくちょく行っていた。

 しばらく行けないでいたところ、タツヤから、トリイさんが亡くなったという知らせを受けた。まだ30代だった。ドルフィーは36歳で亡くなり、チェは39歳で亡くなっている。

タツヤはみのりさんに好意を寄せていて、どうやって調べたかわからないが、2、3年後、みのりさんのところを訪ねたそうだ。みのりさんは小さい子と庭で遊んでいて、タツヤが話しかけると、一瞬、懐かしそうな顔を見せたけれど、「幸せに暮らしているので、もう来ないでください」と言われたそうだ。

トリイさんが生きてさえいてくれれば、トリイさんにもみのりさんにも会えただろうに。セ・ラ・ヴィ それが人生だ。

 小岩駅南口の地蔵通りに、ジャズ喫茶「ドルフィー」はもうない。

さざなみ4 タイチ

4 タイチ

 タイチは高校3年の時のクラスメイトだ。ラグビー部に所属し、今で言うイケメンで勉強もできたから、女子生徒にはモテた。

 ある日、タイチはK先生の国語の授業で吐いた。私は隣の席に座っていて、前の席の生徒の陰に隠れて弁当を食べていた。K先生は指導部の主任で、黒縁の眼鏡をかけ、ガタイがいいわけではないが人を圧するオーラがあった。だから、そういう先生の授業で早弁をするのは、一種のステータスになっていた。その先生が普段に似合わずうろたえて、「誰かタイチを保健室に連れて行ってやってくれ」と言ったのは、意外だった。タイチと私が座っていたのは、一番後ろの席だったので、K先生は気づかなかったのだろうが、タイチの吐瀉物からはアルコールの匂いがプンプンしていて、周りの生徒たちは笑いをこらえるのに必死だった。

 タイチは、前の日、トリイさんの店で飲み過ぎたのだった。女子生徒二人が、両脇からタイチを支えて、保健室に連れて行った。私はタイチの隣の席になったことを呪った。食べたばかりの弁当を戻さないように、半分目を閉じながら雑巾で拭き取った。私にとっては、とてつもなく不幸な出来事だったが、K先生にも優しいところがあるんだ、というのは発見だった。

 

 タイチは現役でKO大学に合格した。本人は、カンニングで合格した、と周囲に吹聴していたが、それは照れ隠しで言ったことだろう。私のいとこの夫が塾を主宰していて、タイチは中学、高校と、その塾に通っていた。親族の新年会でいとこの夫と会った際に、タイチのことをたいそう褒めていた。タイチは大学卒業後、N銀行に就職した。その時に改めて、大学合格もN銀行への就職も、カンニングやフロックによるものではなかった、と思った。

 タイチとは年に1〜2回、気のあった仲間たちと飲んでいたが、ある時からタイチはアルコール類を飲まなくなった。理由を聞くと、アルコール依存症と診断されたという。ある時、パレスチナの講演会に誘ったら来てくれた。講演会の後で、喫茶店で話していると、タイチはいくつかファイルを見せてくれて、アルコール依存症について熱心に説明してくれた。データを見せながら説明してくれたが、私に説明するというより、自分を納得させるために説明しているように思えた。

 ヒロユキも大阪のタツヤもアルコール依存症だった。一度、タツヤに付き合って断酒会に参加したことがあった。それぞれの参加者がそれぞれの体験と断酒への決意を語るのだが、会社を潰した人、家族、友人を失った人、健康を損った人、それらのすべてを失った人、一人ひとりの話に壮絶なドラマがあった。タツヤは断酒に対して斜に構えていたが、タイチは正面から向き合っていた。

 最後に六本木のレストランでランチをした時に、別れ際、うつ病の薬を飲んでいる、と話してくれた。タイチはハーレーにまたがって、六本木の街に消えていった。後ろ姿を見ながら、うつ病で運転しても大丈夫なのか、と思ったが、それがタイチを見た最後となった。

 それから3ヶ月ほど経った頃、ジローからタイチが亡くなったという知らせがあった。マンションから飛び降りた、という話だった。信じられなかった。タイチは、生きるために断酒していたのに、なぜ自ら死を選んだのか。うつがそうさせたのか。もっと話を聞いてあげればよかった。

 タイチは、妻と離婚したがっていた。喪主は妻だ。人間、死んだらおしまいだ、と思った。迷ったが、葬式には行かなかった。タイチが望んでいないだろうと思ったからだ。しかし、事情はどうあれ、葬式には行くべきだったかもしれない。

さざなみ3 マサオ

3 マサオ

 マサオはタツヤ、ヒロユキと同じく高校の同級生だった。マサオは高校生の時から、サルトルフーコーを読み、学校の中でも一目置かれていた。マサオとはいろいろ話をしたが、一番記憶に残っているのは、「人間の死は経験的な事実に過ぎない」ということだ。今までの人間は確かに死んでいったかもしれない。しかし「人は死ぬ」というのは経験的、帰納的真理であり、一人でも死なない人間がいれば、その真理は崩れる。だから、オレは死なない・・・最後の部分は飛躍しすぎだと思ったが、発想はユニークだと思った。

 マサオは三人兄弟の三番目で、二人の兄は医学部を出て医者になった。マサオも、医学部かどうかは別として、大学に進学するのだと思っていたが、進学せず、労働者となった。父親への反発と、優秀な兄二人への反発があったのかもしれない。マサオは父親を憎んでおり、ことあるごとに「ぶっ殺してやる」と言っていた。ある時、進路をめぐって父親と口論になり、マサオが部屋に戻って木刀を持ってくると、父親はなげしに掛けてあった先祖伝来の槍を取り、鞘を払って構えた。マサオは「いつかぶっ殺してやるからな」と捨てゼリフを吐いて撤退したという。壮絶な親子だ。

 マサオは季節労働者として全国を渡り歩き、最後は沖縄にたどり着いた。日本の最西端、与那国島の浜辺で、サトウキビ工場の仲間たちと飲んでいる最中、姿が見えなくなり、仲間たちが探すと、波間に漂っているマサオを発見したという。

 マサオの通夜振る舞いは、今般コロナの影響もあり、店じまいした柴又の料理屋で開かれた。川魚料理が有名な店で、特にうなぎがおいしかったが、箸が動かず、私たちはひたすら飲んだ。親戚だかなんだかわからない人たちが、口々にマサオを褒め、マサオの死を残念がった。人間、死んだらおしまいだと思った。

 その席で、家族は、マサオの死が自死ではないか、と私たちに訊いてきたが、私たちは答えなかった。マサオは父親を憎んでおり、父親が亡くなったらその遺産で喫茶店を開くことを夢見ていた。マサオが1号店の店長で、タツヤが2号店、ヒロユキが3号店、で私が4号店。だから、マサオが死ぬわけがない・・・だが、そんなことは家族には言えない。マサオが望んでいたのは、父親の死であり、自分の死ではない。逆に、なぜ家族はマサオの死が自死だと思ったのだろう。マサオは、家族には自分の精神の危うさを見せていた、とでもいうのだろうか。

人間、死んだらおしまいだ、と痛切に思った。最後に父親を見ると、そこには槍を構える気迫ある姿はなく、息子を失って悲嘆に暮れる一人の年寄りがいるだけだった。

 

 その帰り道、些細なことからヒロユキとタツヤが言い合いを始め、取っ組み合いのケンカになった。私はオスカー・デ・ラ・レンタの礼服を着ていたので、巻き込まれないように遠くから見ていたのだが、タツヤがヒロユキの礼服の袖を引っ張ると、そのまま袖がすっぽ抜けた。三人で心の底から笑った。

さざなみ2 ヒロユキ

2 ヒロユキ

 ヒロユキは、タツヤと同じく高校時代の友人だ。コーラが大好きで、缶のプルタブを集めてつなげてチェーンを作り、天井から何本も垂らしていて、まるで熱帯雨林のようだった。

 弱冠20歳にしてヒロユキの歯はボロボロだった。コーラとの因果関係は不明だが、私はコーラを飲まなくなった。

 ヒロユキの家の近くに、その筋の親分の家があり、その親分に可愛がられていた。ある時、親分が麻雀するのにメンツが足りなくなり、ヒロユキが呼ばれ、私もついていった。親分は、顔はコワモテなのだが、麻雀はからっきし弱く、ヒロユキと私はお小遣いを姐さんからもらって帰ってきた。姐さんの顔は親分よりもっと怖くて、二度と行かなかった。

 ヒロユキは酒を飲むと気が大きくなり、酒酔い運転の常習犯だった。買ったばかりのシルビアで東名を走り、運転を誤って一回転し、シルビアは即廃車となったが、本人は無事だった。また、ある時はワゴン車で一回転し、救急車で運ばれ、ヒロユキの兄貴とタツヤと私で病院に駆けつけたが、この時も奇跡的に無傷だった。タクシーにはねられて?フロントガラスを突き破って、車内に飛び込んだこともあったらしい。運転手はヒロユキを路上に放置して逃げ、目撃者が警察に通報し、警察官がヒロユキに事情を聞くと、ヒロユキは一言「黙秘します」。警察署で一晩過ごし、警察官に「なぜ私はここにいるのでしょう」と聞くと、警察官は「それはこっちが聞きたいよ」と答えたそうだ。

 

 ヒロユキは、義理・人情を重んじ、頼まれるとイヤとは言えない人間だった。勤めていた会社で経理を担当していたが、会社の資金繰りが苦しくなり、社長が借金するのに連帯保証人になってしまった。自分の会社ではないのだから、連帯保証人になる必要はない、と私もタツヤも口を酸っぱくして止めたが、社長は金を借り続け、1億円になった頃に会社の金を持ち逃げし、行方をくらました。となると、債権者も銀行もサラ金闇金もヒロユキ宅に毎日、毎晩押しかけるわけで、家族を守るために、ヒロユキは蓼科に逃げ、ホテルのマネージャーになった。そのホテルは、いわくつきの物件らしく、一室にその筋の人たちが住んでいて、債権者が来ると追い払っていたという。その頃、バブルで東京の地価もバカ上がりとなり、ヒロユキは自宅を売却し、借金を返済した。

 もう、破天荒そのままの人生だった。

 

 酒とタバコがたたってか、ヒロユキは食道がんになった。ヒロユキが生前葬をやってくれと言うので、仲間で集まって、お花茶屋駅前の飲み屋で生前葬をやった。もちろん本人はタダだ。ヒロユキはそれに味を占めて、その後二回、生前葬をやった。

 食道がんの手術は成功したのだが、しばらくして舌がんにかかった。その年の暮れ、電話があり、来年の桜は見られないかもしれない、と珍しく弱気だった。そんな弱気でどうするんだ、来年も花見に行こうぜ、と励ましたが、しばらくして亡くなった。

 不死身だと思っていたが、とうとう亡くなってしまった。生前葬をやっておいてよかった。

 

さざなみ1 タツヤ

*これはフィクションです*

 

さざなみ1 タツ

 昨年3月、タツヤの元パートナーから連絡があり、タツヤが危篤だという。勤務先から自宅に帰る途中だったので、一旦家に戻るかどうか迷ったが、そのまま新幹線に乗り、大阪に向かった。

 タツヤはコロナではなかったが、病院は厳戒態勢で、面会は5分に限られた。5分という短い時間・・・しかも自分のためだけの時間ではない。

 二人の共通の友人マサオが亡くなった場所について、タツヤは石垣島だと言い、私は与那国島だと思っていて、長い間、二人の疑問だった。先日書棚の整理をしていて、当時のノートが見つかり、そのノートには、葬儀の日時とともに、与那国島、と書かれてあった。

 タツヤ、ずっと疑問だったマサオが亡くなった場所だけれど、与那国島だったよ。ノートに書いてあった。早く良くなって、一緒に行こうな。

 危篤と聞いていたが、意識ははっきりしているようで、こちらの言うことも理解できるようだった。言葉はなかったけれど、うなずいているように見えた。本当にこのまま死んでしまうのか、と不思議に思った。

 

 一週間後、タツヤの元パートナーから、タツヤが亡くなったというメールが来た。危篤と言われた状態からよく頑張った、という思いと、やっぱり亡くなってしまったのか、という思いが交錯した。

 葬儀は行わない、という話だったが、参加させてもらった。お別れの時に、ご家族、参加者でタツヤが大好きだったビールを飲ませてあげた。

 

 タツヤが亡くなってしばらくは、タツヤに連れて行かれるのではないかと思い、本気で怖かった。コロナはまだ収まらないし、もともと高血圧はあるし・・・

 

火葬場で、ほんの小さなお骨を分けてもらった。今はまだ、沖縄には行けないが、行けるようになったら、タツヤが最後まで気にかけていた沖縄本島辺野古と、マサオが亡くなった与那国島に連れて行ってあげようと思う。